境内のご案内

  • 明応2年(1493年)本願寺第8代宗主蓮如上人(1415~1499年)の直参(直属の弟子)の西心法師(西円)を開基(お寺の開創者)として浄光寺は歩みを始める。
  • 西心法師は近江(現在の滋賀県彦根市)に生まれ、近江(宇多)源氏、佐々木四郎高綱の第11代の孫、今津大蔵之丞(佐々木備中守)綱忠の子弟で佐々木一族の守護する佐々木神社(沙沙貴神社)に住す。
  • 西心は蓮如上人78歳の時には西国(西日本)教化(真宗の教えを弘める)の命を受け、先ず広島の可部(現在の広島県安佐北区)の品窮寺を創建した後に豊前国(現在の大分県中津市今津)の地に浄光寺を創建。
  • 江戸時代に入ってからは、5代目能化法霖(1693~1741年)に師事した京都の宏山寺僧樸(1719~1762年)の高弟で豊前森山の教覚寺崇廓(1729~1786年)の弟子であった浄光寺円珠(1746~1797年)が学林(現在の龍谷大学の前身)に登り、安居(学僧の教学研鑽の場)で講義をし、浄光寺義天(円然)を経て、浄光寺月珠(1795~1856年)に到る。

  • 月珠は義天の嫡男として生まれ、初め宗乗(真宗学)を豊前福島の長久寺道隠(1741~1813年)に学び、道隠が没すると父の義天に就いて研鑽し、蘊奥を究めた。
  • 文政11年(1828年)春、京都の本山西本願寺に奉職し、安心教諭役となる。これより毎年命を受け各地を奔走し、道俗を教諭して功績を挙げ、度々褒賞を受ける。
  • 天保6年(1835年)命を受けて安居講師の勧学興隆(1759~1842年)の安心調査、教誡。その後、程なくして職を辞して帰郷、本山より号を賜り「勝縁房」という。
  • 浄光寺に「慧日閣」(学寮)を開いて後進の教育に尽力。
  • 天保13年(1842年)5月27日、司教を授けられるが近来学階の規律が乱れ学と位の不相応の者があることを憂えて自ら進んで学階を返還した。
  • 嘉永2年(1849年)再び司教を授けられ、嘉永4年(1851年)の安居に『因明入正理論』を副講。同年10月、勧学職に任ぜられ「本願成就文」を本山黒書院にて講義。
  • さらに嘉永7年(1854年)安居に『入出二門偈』を講義し、同年8月に『本典』(『教行信証』)を本山古書院にて講義し、時の宗主広如上人(1798~1871年)と嗣法主明如上人(1850~1903年)も聴講されておられたが、講義半ばに広如上人の病によって講義はやむなく中止となる。
  • そのため月珠は『本典敬信録』(『廣文類対問記』)10巻を撰述して広如上人に献上した。
    宗主は自製の和歌をもってこれを賞讃された。
  • 月珠は道隠に学び、学系(学問の系統)は空華学派(越中の僧鎔を派祖とする学轍)を承けつつ、晩年、諸家を折衷して創見を出して発揮するところが多く、殊に行信論では、深励、僧叡、南渓等の諸説を参考にして「豊前学派」という一学派を形成するに至った。また月珠、円月と善譲、善海の間で繰り広げられた行信論争は教学史上でも注目される。
  • 安政3年(1856年)11月3日寂。
  • 享年62歳。諡善通院。

  • 「慧日閣」の門人の数は大変多く、特に堀川観阿、上原宣正、摂受吐月、東陽円月、七里恒順、諦観の6勧学をはじめ、慧穏、石厳、月将、善浄、慧限、玄溟等の道年厚い優れた学僧を多く輩出している。
  • また福沢諭吉も幼年期に「慧日閣」で学んでいる。